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美々風 Mimikaze

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陶磁器

廻音(めぐる)工房展〜陶・木・染・音による家族展 Vol.2〜 (奈良県大芸術祭参加企画)

奈良県大芸術祭参加!

10月23(金)14:00〜18:00 期間中入場無料
10月24(土)10:00~17:00
10月25(日)10:00〜17:00

Pianist 榊原明子 廻音ミニライブ

10月23(金)19:00〜20:00
奈良町ギャラリー 美々風 ライブ料金 ¥2,000

問い合わせおよびライブ予約は廻音工房(Tel:080-9601-6014 email:megurukoubou@gmail.com

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小皿、豆皿、手塩皿


個性たっぷりの小さな皿たちです。径6cm〜8cm。

古伊万里白磁壺


あるいは鹿児島の平佐焼かもしれません。心和む、おおらかでのびのびとした肌と形。日本の磁器は、江戸初期、朝鮮半島から渡ってきた人々によって伝えられたといいます。電気もなくガスもなく、木や水や風や太陽光といった自然エネルギーに頼る中での焼き物作りは、いったいどのようなものだったのか。現代とはかけはなれた環境の中で製作された当時の品物が、今の時代に同じ形で伝えられる、この陶磁器というものには、改めて驚嘆させられます。おそらく何の作為もなく、ただただ用のために作られたであろうこのような白磁の壺が、当時から現代まで移り行く時代を、静かに黙然と見つめてきたのだと思うと、やはり感慨深いものがあります。
古伊万里白磁壺 江戸〜明治 高さ18.5cm・口径9cm・底径8cm

(sold)

壺の話

「壺」って何なのでしょう。
なにしろ、現代の一般家庭において、それは必需品ではありません。
だけど少しの間、壺が使われていた場面を幻視してみます。それは大きな壺です。水をため、穀物を貯蔵するために、生活の場面にどっかりと腰をすえている。今は失われてしまった、それらの壺とともにあった暮らし。
幻視から覚めると、驚くなかれ壺だけは残っています。縄文からつながる圧倒的な美を宿して。

物の美は実用とともにあると考える者にとって、壺というものはやっかいです。もはや、本来の用途を離れ、見るものになってしまった壺。しかしその美は圧倒的です。

「世の中には2種類の人間がいる、すなわち壺に出会う人間と壺に出会わない人間とが」と言ったのは誰もいませんが…… ともあれ、いったん壺の魅力にとりつかれてしまったら、人はどこかに壺的なものを持ち続け探し続けていくことになる…… ような気がしないでもありません。ありがたいことにこのような中世の壺なんかはちょっとやそっとじゃ手が出るものではないですが。↓

〜「古陶の譜 中世のやきもの—六古窯とその周辺—」(茨城展 平成23年1月2日〜3月21日 @茨城県陶芸美術館 以後愛知、福井、山口を巡回)図録より〜

かつて、東大寺には「壺法師」といわれた人がいたそうです。第206世別当の上司海雲師その人で、なにしろ興が動けば手当たり次第まちで買い求めたということだそうです。

「女に失恋し人間にも失望した時期から、モノ言わぬ美しいもの、決して人をダマシたりはせぬ可愛いものども、そうしたモノたちの中でも一番人間にちかい壺という不思議な物体、いえ、妖しい動物(いきもの)に次第に現を抜かして」

いったと語っていらっしゃったり、

「阿呆な自分の姿を見るようでおかしく、うれしくなってくることがある」

などと書かれていたそうです。(安東次男著『古美術の目』・ちくま学芸文庫 所収「壺の話」 参照)

「古陶の譜 中世のやきもの—六古窯とその周辺—」(茨城展 平成23年1月2日〜3月21日 @茨城県陶芸美術館 以後愛知、福井、山口を巡回)を見ました。これでもかというくらいの大壺が多数展示してあって、非常に見応えありました。できれば(できないのはあたりまえですが)、触れてみたかった、と思う同志はたくさんおられるのでは。上記の「壺の話」の中で安東次男氏も書いておられます。

「かく云う私も、昭和二十年代の終から三十年代にかけて、信楽の大壺ばかりを探して歩いたことがある。気に入った一つもあれば、持ち帰ってさっそくタワシで泥をごしごし洗い落とし、抱いて風呂に入るのが、無上の楽しみのように思われた。あらたまって人にたずねたこともないが、これは壺好なら誰でもがやっていることではないかと思う」

そこまでするか…… いやもしかしたら……

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